国語教育史研究会

第21回例会/講演会


日 時 2001年08月03日(金) 13:30〜17:00 早稲田大学16号館307教室
題 目 研 究 「旧制中等教育での教科書教材としての芥川作品」
  武田憲幸(静岡県立新居高等学校)
研 究 「国語科での情報活用教育−学習指導要領の分析−」
  工藤哲夫(東京学芸大学附属大泉中学校)
講  演 「探求、国語教育史」 
  古田東朔 先生(本学会顧問)
参加者
41名
愛敬俊幸、赤羽清孝、今井亮仁、伊藤真由美、岩崎淳、岩淵匡、上野左絵、牛山恵、大平浩哉、小原俊、甲斐雄一郎、笠井正信、加藤猛、北林敬、工藤哲夫、熊谷芳郎、黒川孝広、小林國雄、坂口京子、山東功、武田憲幸、武山恭一、田近洵一、田鍋桂子、田村景子、中島國太郎、中島吉隆、野地潤家、野村耕一郎、野村敏夫、朴校煕、府川源一郎、古田東朔、前田健太郎、前田真弓、松川智子、水野美鈴、森田真吾、渡辺通子、他1名
「旧制中等教育での教科書教材としての芥川作品」 武田憲幸
発表内容 「旧制中等教育での教科書教材としての芥川作品」

昭和戦前期、芥川の作品は中等教育の国語教科書にどのように教材化され授業で扱われていただろうか。周知のように当時の教育は男女別学制度の下で行われていた。中等普通教育にあたる旧制中学は男子、高等女学校は女子のみが学ぶ場所であって、両者は完全に分離されており、「性別役割分業観」再生産の教育が行われていた。「男は外、女は内」が象徴するように、良妻賢母であることが求められた女子は、普通科目単位数が男子に比して少なく、代わりに裁縫を核とした家事技術教育が課せられていた。両者の差異は家庭科科目に留まっていなかった。国語に関しても、両者は教科の名称・教科書名・単位数が異なっていた。従って、教科書の内容にも違いがあると予想されるが、そこにはどんな差異があったかを芥川作品に即して探ってみたい。芥川を取り上げるのは後で見るように、戦前の教材の中で特徴的な教材の一つだからである。

戦前の中等教育の国語教材 芥川作品の位置
 まず昭和戦前期に教材化された芥川作品の国語教科書中に占める数を確認したい。当時の国語教科書は、旧制中学53種 高等女学校42種あった。(国語教育史資料 第二巻 教科書史 東京法令出版 1981年4月 井上敏夫)そこに採られた教材については田坂文穂氏による膨大な調査がある。田坂氏は「旧制中等教育 国語科教科書内容索引」(1984年2月発行 教科書研究センター)に結果をまとめている。調査は、旧制中学37種、高等女学校35種の教科書に及ぶものであり、総数に対する比率がやや後者の教科書に偏しているものの、これ以上の詳細な調査はないと思われ、ここでは田坂氏の調査を基にする。(調査の分析及び抽出した数値は筆者の責任である。)それによれば、作者名或は出典名が明記された作品、約16500教材のうち芥川作品は延べ数で148に及ぶ。調査対象となった教科書は72種あるので、平均すると一教科書に2教材程度採録されていることになる。また教科書に採られた作者毎(作者名不明とされた場合は出典毎)の作品数は別表1のようであるが、芥川は実に21番目に当り、明治以降の小説家・詩人・歌人・俳人に限ると、島崎藤村、夏目漱石、北原白秋、薄田泣菫、高山樗牛、徳富蘆花、幸田露伴、荻原井泉水、正岡子規、森鴎外に次ぐ採録数である。同時代の作家の中、芥川は、文豪との定評を得ていた露伴・漱石・?外と肩を並べ、教科書に採録された作品が多かったことになる。(藤村や白秋、泣菫は韻文作品が多いので同じ比較はできない。)芥川は、「教科書を通して見た作家の群の甚だ淋しいのに案外な感がしないでもない」(芥川龍之介研究資料集成 巻2 p295 「国語教科書編集者の見たる現代作家の文章」 土龍子 初出「文章倶楽部」第11巻第11号 1925年11月)中で、「正に筆頭に置かれるべき作家である。氏の文章は文法的に見ても大抵正確である。<中略>教科書に見える現代作家としても、文章の篇数の上から言つて第一流である。<中略>氏の冷静な理智の閃きと、その俳諧漢詩乃至洋文脈から来た手法と、殊に歴史小説に於て?外あたりを学んでゐると思はれる、かの叙事の間に手際よく挿入しおほせた叙景の情趣などは、いかほどまでに生徒の前にパラフレーズされてをり、鑑賞されてゐるであらうかと気遣はれる。それほど氏の文章には真の宝玉が深く蔵されてゐる。」(同上 p297)と高く評価されていた。教材化された芥川の作品数を、教科書の発行年次別にしたものが別表2である。別表2には、比較のため、参考までに漱石の作品数も加えた。いずれにせよ1937年発行の教科書まで芥川の作品は、中等教育の教科書ではお馴染みの教材であり、別表3−1及び3−2のような作品が採られていた。

男女別学制度下での国語教材―半数強が男女別の教材だった
 ところで、別表3−1を見て第一に目を引くのは、教科書採録作品に見られる、校種による偏りである。例えば、「戯作三昧」「蜜柑」「手巾」の校種別採録数を見ていただきたい。「戯作三昧」の77%が旧制中学、「蜜柑」そして「手巾」はそれぞれ80%、100%が高等女学校の教科書に採られている。こうした偏りは実は芥川に限ったことではない。別表1にあげた作者・著者にしても、作品ごとに眺めると、その採録総数に占める旧制中学教科書の割合が70%以上のケース、逆に30%以下の場合が多々ある。
 校種別採録数の割合で作品を分類してみよう。作品を、校種別比率また採録数比率で分類すると別表4のようになる。
 なお、別表4の作成基準は次のようである。
1 教材名が異なっていても出典が同じで、教科書の編集者・発行年などを考えるとほぼ同一の教材と見なせるものはグループ化して分類した。
2 各教材の採録数中、旧制中学或は高等女学校の教科書に占める割合が70%以上かどうかで、ABCabcの6グループに分類した。大文字は同じ教材の採録数が5以上、小文字は5未満を表す。Aaのグループは高等女学校の教科書に、採録数の70%以上が採られていること、Ccは旧制中学の教科書に70%以上採られたこと、Bbはいずれかの教科書の採録数に占める割合が70%未満であることを示している。
 つまり採録総数6の教材が高等女学校の5教科書に採られている場合はAに、4採られている場合はBに分類した。また採録総数4の教材が旧制中学教科書に3採られた場合はcに分類した。
 別表4にある通り、教材総数のおよそ45%(約7400教材)が旧制中学と高等女学校での共通教材であり、残りは約27%(約4500教材)ずつ旧制中学或は高等女学校で使った教科書に採られることの多い教材だった。採録数5作品以上の教材に限ると、延べ数約8000のうち、高等女学校の教科書に採られること70%以上の教材は約1000、旧制中学のそれは約1300に及んでいる。二つの教科書編集者が異なっているならば以上の傾向はありうることかもしれない。しかし編集者総数38グループのうち17グループが両方の教科書を編纂しており、そこで採られた教材の延べ数は約11000に及ぶが、それらを同じ基準で分類しても同様の結果である。表4−2参照。もちろん田坂氏の調査対象は、旧制中学教科書53種中37種、また高等女学校の教科書42種中35種類に過ぎず、全教科書には及んでいない。また原則として初版本についての調査である。当時の教科書が、改訂の都度どの程度教材の差し替えを行ったのか分らない。だから別表4の数値も概数でしかない。しかし調査に漏れた教科書が、特別な編集方針を持っていたとは考えにくい。また改訂の度に相当数入れ替えたとも想像しにくい。従って、ここでみた比率は昭和期の中等教育の国語教科書全体に当てはまるものと考えられる。

 今述べたABCグループに分類される作品はどのようなものがあったのだろうか。表5を見ていただきたい。ここで注目したいのは同一の著者または出典で、AあるいはCに分類された教材である。例えば、謡曲の場合、「隅田川」が高等女学校に、「鉢木」は旧制中学で多く読まれていた。また軍記物語の特定作品の場合、更に阿仏尼・樋口一葉などの女性作者の場合などにもACグループに属す傾向がある。作品の題名だけを眺めて論じても印象批評に過ぎないが、ある作家(書物)の特定の作品が、A或はCグループに分類されることになつているのは事実である。そして現代作家の中で、数の上で顕著な作家に芥川龍之介がいる。
 この差異のルーツは両者の成立過程にあるかもしれない。高等女学校は旧制中学校に遅れ、法令上は1891年の改正中学校令で誕生した。その第14条に「高等女学校は女子に須要なる高等普通教育を施す所にして尋常中学校の種類とす」と女子に限られた学校という位置付けでスタートした。両者の相違点は次のようにも指摘される。「1899年公布の高等女学校令と中学校令はその第1条で、それぞれ、一方の性の高等普通教育を為すことを目的とする学校であることを明記した。こうして中等普通教育は単に男女別学というだけではなく、性別によって学校種別も異なるものとされた。しかも、前者の普通教育には主婦にとって必須の知識・技術が含まれるのに対し、後者は、もっぱら上級学校進学や社会人になるための基礎教養が中心となるという違いがあった。これは両者の学科や授業時数に反映している。つまり、高等女学校は、中学校とは修業年限が短いという点でも、外国語や数学の時間数が少なく、物理及び化学や法制及び経済がない代わりに家事、裁縫の時間を多くとっているという点でも、大きく異なっている。」( 男女共学制の史的研究 p64 橋本紀子 大月書店 1992年)
 相違点はこれだけではなく国語に関してもあった。第一に名称である。中学校の教則大綱や学科及其程度に示される国語は、初めは「和漢文」、やがて「国語及漢文」いう名称だったのに対し、高等女学校のそれは「国語」とされた点である。第二に施行規則の学科及其の程度に示される内容の違いである。名称とも絡む点であるが、例えば、明治34年3月22日の高等女学校令施行規則では、「国語は普通の言語、文章を了解し正確且自由に思想を表彰するの能を得しめ文学上の趣味を養ひ兼て智徳の啓発に資するを以て要旨とす 国語は現時の文章を主として購読せしめ進みては近古の文章に及ぼし又実用簡易なる文を作らしめ文法の大要及習字を授くへし」とされていた。これは旧制中学でのそれから「国文学史の一班を授け又平易なる漢文を購読せしめ」を省いたものであった。第三に、両者の単位数の違いである。明治34年3月5日の中学校令施行規則で「国語及漢文」は、1〜3年7単位 45年 6単位であるのに対し、明治34年3月22日の高等女学校令施行規則では国語は、12年6単位 34年5単位とされている。このように教科の名称・教授内容・単位数に相違点のある両者ではあるが、教授内容を定めた施行規則に触れられた「漢文」及び「国文学史」に関わる教材数の比率を較べてみてもほぼ同数であり、ここには差異と呼べるものは見られない。「漢文」の授業は別の読本で行われていた為と推測される。また時代別に作品が占める割合を見ても、現代の作品が高等女学校に僅かに多く見られるものの、大きな差異は認められない。
 “教授要目”まで目をやると両者の違いははっきりする。高等女学校では「温良貞淑の女徳を涵養するに足るもの、古今東西の美徳善行ある女子の事蹟又は忠良賢哲の言行を叙し修養に資すへきもの」との文言があるのに対し、旧制中学のそれは「忠良賢哲の事蹟を叙し修養に資すへきもの、文学的趣味に富み心情を高雅ならしむるに足るもの」とされている。「古今東西の美徳善行ある女子の事蹟」は高等女学校、「文学的趣味に富み」は旧制中学だけに定められる点に差異がある。どんな「女子の事蹟」が載っていたか、また「文学的趣味」の中身は何かという点は大いに気になる所である。しかし全ての作品に当ることができなかったため論及しない。ただ、女性作家(著者)の手になる教材は総数で704あるが、うち618作品が高等女学校に採られていることだけ確認しておきたい。
 こうしてみると、両者の差異は、表4で見た点、すなわち当時の国語教科書中、五割強の教材が旧制中学あるいは高等女学校の教科書に偏って採録されていた点に顕著に現れている思われる。
 このことはそのまま国語教科書で出会う作品が、男女によって相当数異なっていたことを意味する。繰り返しになるが、戦前の中等教育は男女別学制度下にあったからだ。
 男女別学の学校で、別表3−2から分るように、芥川の作品の場合、「蜜柑」「手巾」は主に女子生徒が、「戯作三昧」「トロッコ」は主に男子生徒が教科書で出会った教材ということになる。一方、「蜘蛛の糸」「槍ヶ岳紀行」「或日の大石内蔵之助」「杜子春」は、男女ともに、とはいえ全く別の学校・別の先生・別の教科書という条件の下だが、国語の授業で読む教材だったのだ。

教材化された芥川作品は授業でどう扱われたか
 さて、芥川作品の中で採録数の多い「蜜柑」「戯作三昧」「蜘蛛の糸」は授業でどう扱われていたかを振りかえってみたい。
 昭和の戦前期、それらが授業でどう読まれたかがここからの考察の対象である。ただ、「鼻」で漱石の賛辞を得、文壇入りを果したデビュー当時は、「有能な作家芥川龍之介の文壇入りを、自然主義伝統に立つ作家たちは喜ばなかった」(「芥川龍之介研究史」 関口安義 p12 芥川龍之介研究資料集成 別巻T 日本図書センター  1993年)わけで、かなり否定的な批評もあったようだ。さらに、芥川の死後、「追悼号にいくつも載った、いたわりと同情に満ちた回想や右に見た好意的作品評や人物評を除くと、この時期から戦争をはさみ、戦後昭和ニ十年代後半あたりまでに書かれる芥川論には、否定的立場に立ったものが目立つ。芥川龍之介は否定され、乗り越えられねばならないという一貫した論調が、文学的立場の相違を超えて次々と現れ、ここに芥川否定・超克の時代が到来する」(同上 p25)わけで、国語の授業でどのような視点から作品が扱われていたかを探すのは難しいが、手がかりを当時の教師用指導書に求め、教室での読みを探りたい。特に、昭和9年発行の岩波書店の「国語」は、当時の国語教育研究隆盛の象徴的存在とされるが、その教師用指導書を参考とする。しかし岩波の「国語」には、「蜘蛛の糸」「トロッコ」「戯作三昧」が採られているだけであり、「蜜柑」については別の教師用指導書が必要になり、岩波の指導書とは質量ともに比較にならないものだが、「昭和国文読本教授参考書」(東京宝文館 昭和4年発行)を参照する。
 もう一つ参考とするものに、昭和初期「芥川否定・超克が叫ばれる時代に、初の包括的芥川研究の単行本として現れ」(「芥川龍之介研究史」 関口安義 p35 芥川龍之介研究資料集成 別巻T 日本図書センター  1993年)「著者自身のテクストへの切り込みが遺憾ながら弱い」ものの「その客観的・実証的記述は」「博捜の同時代評の紹介は、芥川研究が飛躍的に進展した今日、依然この部分の価値を貶めないものとする」(同上p34) と評価される竹内真の手になる「芥川龍之介の研究」がある。昭和九年に刊行されたこの書は、いくつかの弱点が指摘されるものの、昭和一ケタ代の芥川理解の雰囲気を反映していると推測され、岩波の教師用指導書にも竹内からの引用が見られるからである。そしてこれをベースに「芥川龍之介研究資料集成」に収められた論文も参照しながら探っていきたい。

(略)

 問題意識は二つあった。戦前の中等教育で、芥川龍之介の作品はどう教材化されていたかが第一点であった。男女別学制度の下、芥川の場合も含め教材化された作品は、男女で大きく異なっていた。また、男女共通教材に分類したものも、当時は別の学校で別の先生から学んだことにも注意したほうがよいだろう。
 男女で違う教材が採られたことの原因・背景分析は、教材全体の中で行われるべきものであり、.芥川の場合に限ると印象批評的なものになるとは思うが、少なくとも次の傾向は指摘したい。表3に見られる教材のうち、採録数5以上の作品を眺めると分かることだが、高等女学校の教科書に多く採られた作品には、すべて女性が主人公に準ずる役割で登場している点である。「蜜柑」には「小娘」、「手巾」では「西山篤子」が登場し、作中の役割も大きい..それに対し旧制中学の教科書に多く採られた作品ではどうか.「戯作三昧」にしろ「トロッコ」にしろ、女性の登場人物はあるが通行人の役割でしかない。また高等女学校と旧制中学の共通教材ではどうか.「蜘蛛の糸」「槍ケ岳紀行」「或日の大石内蔵助」にはゼロであるし、「杜子春」で地獄で鞭打たれている場面で登場するだけである。従って、「蜜柑」と「手巾」は、女性が大きな役割を持って作中に登場する数少ない作品ということになる。この点が高等女学校の国語教科書に採られた理由の一つだったのだろうか。
 これに関係するかどうか不明な点もあるが表8を見ていただきたい。作品の執筆者・作者は、全教材延べ数の95%が男性という構成になっているが、それを旧制中学と高等女学校別に分けてみると、前者の女性作者(の作品数比率)は1%であるのに対し、後者では7%であることが分る。女性作者の作品は、旧制中学では延べ86だが、多くは清少納言・紫式部など中古の作品であり、明治以降の作品は与謝野晶子・樋口一葉・九条武子など計14に過ぎない。一方高等女学校では618教材中、507が明治以降の作者の手になるものであり多様な顔ぶれが並ぶ。全体に占める女性作者の比率が4%余という絶対少数の中での比較であり、また芥川の場合だけから推測するのは無理があるが、作者あるいは作品の登場人物が女性の場合、その作品が女子向きつまりは高等女学校向き教材と考えられていたのかもしれない。
 第二の問題意識は、男女によって異なる場合もある教材は、それぞれどう読まれていたかを、芥川の場合に限って振りかえることであった。「蜘蛛の糸」「戯作三昧」「蜜柑」について「物差し」を“指導書”と竹内氏の著書に求め比較したわけだが、その結果は「蜜柑」についてだけ視点の違いによる相違が見られた。この差異をどう考えるか。この点については時代思潮・社会状況・国語教育の様々な運動とも絡んでくるとも思われ、答えはまだ見出せていない。戦前の中等教育で国語の授業数は、学年にもよるが、高等女学校・旧制中学それぞれで総単位数の二割前後を占めており、教育の中で果した役割は大きかった。戦前の教育は「性別役割分業観」再生産の教育という図式を徒に持ち出しても無意味だが、授業や教材にもヒドゥン・カリキュラムが潜んでいるというのは80年代後半からの様々な研究が明らかにしてきたことである。そうした視点も含めた中で答えを探したいと思われる。
資料目次
「国語科での情報活用教育」 工藤哲夫
「探求、国語教育史」 古田東朔 先生
講演内容 国語教育研究を始めた動機と意識について、明治期での文法書などがどのようにして作成されたかを研究する目的であることをそれまでの業績目録をもとに、ご披露いただきました。(文責:黒川)
資料目次 (業績目録)
写 真
ご講演の古田東朔先生
中央に野地潤家先生、その前に小林國雄先生、その奥に大平先生、野地先生の後ろが中島國太郎先生。左側前より3人目が田近先生。野地先生と小林先生の中の奥が甲斐雄一郎先生。