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日 時 | 1999年7月3日(土) 2:00〜5:00 早稲田大学14号館807室 | |
題 目 | 研 究 | 『コトバ』誌上に見る垣内・輿水の国語教育理論の生成 小原 俊(本郷学園・学習院高等科講師) |
資料紹介 | 国語学会『国語学』における国語教育記事と国語教育との関係 黒川 孝広(吉祥女子中学・高等学校) |
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参加者 | 石毛慎一、犬塚大蔵、牛山恵、内田剛、大平浩哉、小原俊、喜多見眞弓、黒川孝広、竹長吉正、田近洵一 | |
『コトバ』誌上に見る垣内・輿水の国語教育理論の生成 小原 俊 | ||
発表内容 | ||
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国語学会『国語学』における国語教育記事と国語教育との関係 黒川 孝広 | ||
発表内容 | (黒川孝広 発表資料より) はじめに 国語学会の雑誌『國語學』には、昭和24年に発刊してから昭和40年までの間に国語教育の論説・記事が掲載されてきた。その中には数こそ少ないが、注目に値する記事があるので、今回その記事の一部を紹介する。 なお、『國語學』の国語教育の記事については、すでに古田東朔が「国語教育」(国語学会編『国語学の五十年』武蔵野書院 平成7年5月)で調査されているが、そこではそれぞれの論説・記事の内容については触れていないので、今回、いくつかの資料の価値と内容についてと、古田東朔が触れていない記事について紹介することにした。 @「国語教育学会」の記事(第2集、昭和24年6月) 昭和9年に発足した国語教育学会は、国文学、国語学、国語教育学を含む全国的な学会を目指していた。しかし、昭和19年に国語学会、昭和21年に日本文学協会が全国的学会として組織されたので、国語教育の学会として一新された。学会の歴史を確認するのに重要な資料である。 A「座談会 これからの国語教育」(第3集、昭和25年3月) 石森延男・輿水実・佐伯梅友・時枝誠記・西尾実・白石大二により座談会が設けられた。実際には、昭和23年頃の座談会を収録したものと思われる。時枝誠記と西尾実、そして輿水実の言語生活観がうかがえる重要な資料である。内容は次の通りである。 B「座談会 「国語学」編集の足跡」(第100集、昭和50年3月) この座談会の中で「國語學」から国語教育記事が消えた理由が述べられている。国語教育と国語学との関係が歴史的にどう位置付けられるかを調べるのに重要な資料である。 出席者は金田一春彦、亀井 孝、松村 明、佐藤喜代治で、司会は編集部が担当している。 この中で、金田一は時枝誠記と遠藤嘉基が「国語教育は国語学の一部」と述べていたことを指摘する。しかし、亀井は、「国語教育は国語学の領域ではない」としている。 時枝誠記が「国語教育は国語学の一部」としたのは、橋本進吉の影響だとされている。橋本進吉は国語教育を国語学の応用分野と明言していたとのことであるが、これは、西洋の言語学が教育に結びついていたことをふまえての発言であったと考えられる。しかし、亀井孝によって、その概念が覆されたのは、国語教育では各種の雑誌が発刊されていて、国語学は独自の雑誌を刊行する必要があったからと考えられる。 C「国語学会創立二十周年によせて」西尾 実 (第60集、昭和40年3月) この記事で、西尾実は橋本進吉によって、国語学会に理事として要請されたことを述べる。国語学会と西尾実との関係を見るのに重要な資料である。 D「時枝さんとわたし」西尾 実 (第72集、昭和43年3月) この記事は、時枝誠記逝去の追悼号であり、西尾実が時枝誠記という人間をどのようにとらえていたかを見るのは重要な資料である。 E「国語学関係講義題目」(第7集、昭和26年9月) 国語教育としての論説ではないが、時枝誠記が東京大学で国語教育の講座を担当していたことを調べるの資料として価値がある。 F「昭和25年における国語界の展望 国語教育」鳥山榛名 (第5集、昭和26年2月) 以後定期的に執筆される「展望」は、国語教育の年度ごとの動向をさぐるものとして重要な資料である。 G「昭和39・40年における国語界の展望 国語教育」倉澤栄吉 (第65集、昭和41年6月) 『國語學』では最後の国語教育の展望であるが、当時の状況をうかかがうものとして、重要な資料である。 H「国語学会会報 三」 (昭和21年11月) 雑誌『國語學』ではないが、その発刊までに刊行された「会報」には、公開講演会の要旨が載せてある。その中に、昭和21年10月26日に行われた第四回講演会で西尾実は「ことばの実態」と題して講演を行っている。これは『言葉とその文化』(岩波書店、昭和22年3月)の第一章「言葉の実態」の基となっていると考えられる。その意味でも重要な資料である。 おわりに 昭和40年以降は学会の方針ととて国語教育の論説・記事が紹介されなくなったが、それまでは国語教育は国語学の応用分野であるとの橋本進吉の概念が受け継がれていた。しかし、国語学と国語教育との接点が離れてしまったのは、お互いの研究の関連性についての位置が確認できなかったためと考えられる。 この国語教育と国語学との接点が離れてしまったことは、言語生活の研究が滞ってしまったのと、同じ現象であると考えられ、今後もこの関係についての考察が必要であり、学問として教育学や国語学、国文学、社会学、心理学などの関係について理論的研究することが必要であるといえよう。 |
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